第75章:グーハイの苦悩
執務室のドアノブに手をかけて、トンは心配そうに振り返る。
「...今日もここに居るのですか?」
「ああ」
トンの言葉が本当に耳に入っているのか、どこか生半可な声で返事をする。
「はぁ、もう一週間もこの調子ですね...」
そう言って部屋から出ていくトンの言う通り、バイロインとの連絡が取れなくなってからこの一週間は、ずっと会社に泊まって彼からの連絡を待っている様子だった。
他人からするとたかが七日、されどグーハイにとっては地獄のような時間になる。
すでに彼の精神は壊れ始め、まるで可愛らしいパンダのような大きな隈が美しい顔を台無しにしていた。
「インズ...」
今までも離れ離れになったことはある。長期間離れていたこともある。
しかし、それは連絡が取れるという信頼の上で我慢できていたものであり、今の状況ではバイロインの行方を追うことすらできない。
誰かからバイロインに関する連絡が来るのではないかと淡い期待を抱き、一日の業務を素早くで済ませては、残り全ての時間をバイロインに充てていた。
夜九時過ぎになると、会社は空きビルと化す。
グーハイは一人で青白く光るデスクに目をむけ、深いため息を何度も繰り返していた。
そのスクリーンには絶えずバイロインの写真が入れ替わり映され、その映像を見ているとかえって心が苦しめられる。
「ふぅ...」
グーハイが携帯電話を手に持ち、指を滑らせた先は空軍政治部の副主任。
軍部の上層部にすら直ぐにコンタクトが取れるグーハイだが、いつも電話口から聞こえてくる言葉は同じもの。
『シャオハイや、何度も話しているだろう? 私も全力で探してはいるが、何せ閉鎖環境での訓練なんだ。うまく連絡は取れないんだよ』
ーーくそ。役立たずが。
いつもはやさしい気持ちで接する電話相手だが、今回ばかりは気が立ってしまう。
「何度もすみません」
グーハイは恨みを抱いて、携帯電話を机の上に置いた。
煙草に火をつけ、外の星空に向かってゆっくりと息を吐く。
薄灰色の煙が風に吹かれ、暗い夜空に消えていった。
「くそっ」
いい案が思い付かず、仕方なくグーハイは携帯電話に光る連絡先に指を運ぶ。
『もしもし?』
電話をかけた先はユエン(義母)だった。
「...インズの部隊は閉鎖訓練をしてるみたいで連絡が繋がらない。あいつ、確か着替えを十分に持っていかなかった気がするし、届けてくれないか?」
グーハイからの突然の電話に、ユエンは急いで『何かあったの?大丈夫?』と聞き返す。
「別に、何もない。...あいつの上司から連絡が来たんだ」
『そう、なのね。...わかったわ。二日後には届けておくから』
「いや、明日にでも届けてくれ。最近は天気が良くない」
グーハイの催促を不思議に感じるユエン。そして、躊躇いながら『どうして直接あなたが届けないの?』と口にした。
「...別に。あいつの邪魔をしたくないだけさ」
『まぁ、そうなのね!』
その言葉を聞いてユエンは喜びの色を含んだ声色になる。それは、グーハイがやっと彼に執着しないで、人のことを考えられる大人になったのだと感じたからだ。
「とにかく、頼んだからな」
そう言って電話を切り、グーハイは深く息を吸って目を閉じる。
「...ふぅ」
心の中は暗闇に沈み続けていた。
夜、グーウェイティン(グーハイの父)が帰ってきたタイミングで、ユエンは電話の内容をそのまま伝える。
「冗談だろ?」
グーウェイティンの語気は硬い。
「あいつは今、閉鎖環境で訓練をしてるんだ。どうして外部との面会をすることができるんだ?...そうやってまた、自分の息子の顔を見たいだけじゃないのか?そんなことは許されん!馬鹿なことを言ってないで、早く寝なさい!」
彼の強い言葉に臆せず、むしろ反発を強めてユエンは言い返す。
「閉鎖訓練と言えども刑務所じゃないでしょうに、どうして中に入って見ることができないのよ!」
「内容が違うだけで、あいつらは大量殺人犯と同じ環境にいるんだ...!」
「何を言っているの!?」
ユエンは顔を赤くして拳を握る。
「自分の息子を犯罪者扱いするっていうの?! 私は暮らしが豊かになるってあなたが言ったから、シャオバイには転職を進めて軍部に就職させたのに!!」
ユエンが口をひらけば開くほど、その瞳に涙が溜まっていくのを見て、グーウェイティンは慌てたように口調を和らげる。
「別にそう言うわけで言ったんじゃないさ!...俺だって軍に勤めてきたが、辛いと思う日々があったことをお前も知っているだろう? どの職業にだって、辛い時期ってものは存在するんだよ。わかっておくれ...」
「話をすり替えないで!そんなの関係ないわ!...私は風邪をひくかもしれない息子のために服を届けにいくの!」
「はぁ...」
グーウェイティンは頭を抱えて下を向く。
「あいつももう二十七歳だぞ?...自分で体調管理もできないでどうする?!」
夫の言い分に、ユエンは再度怒りを露わにする。
「何よそれ!!...あなたの息子も二十七で料理もできるのに、心配だからってご飯を届けにいってたこと知ってるのよ?」
グーウェイティンは、想定外の爆弾発言に思わず咽せてしまった。
「...わかった。なら、向こうにいる部下に連絡して、服を二枚追加させるように指示を送っておくから」
「だめよ!」
ユエンは唇を尖らせる。
「自分で届けにいくわ!軍部の男なんて、信用できたものじゃないもの!」
「訓練期間中、どの部隊も外部との接触を禁止しているんだ!どうしてそんな身勝手なことが許されると思うんだ?!」
その一言を最後に、冷たい表情を作るユエンは背を向けて寝室へと向かっていった。
この関係は寝るまで続き、嫌な静けさが二人のベッドを支配する。
「...はぁ。」
最後に白旗を上げたのは、グーウェイティンの方だった。
「服をくれ。明日、届けておく」
その言葉を聞いて笑顔になったユエンは、振り向いてグーウェイティンの胸に飛び込む。
「本当!? 服を捨てたりしないでしょうね?」
「...そんなに夫に対しての信用がないのか?」
「まさか!」
そう言って彼女は急いでベッドを降り、戸棚の中で事前に準備した服を出してはベッドの頭の戸棚の上に並べていく。
「明日、行く前に絶対忘れないでくださいね!!」
そう何度も注意を繰り返して。
翌日、グーハイはずっと軍区の別荘に潜伏し、父親の出を待っていた。
午前九時を過ぎた頃だろうか、どこか荒々しい運転の車が出ていくのを確認する。
「やっと出てきたな」
グーハイはその車の後ろを尾行し、四時間以上もかけて、今回の閉鎖訓練が行われている秘密軍事基地に到着することができた。
「ここは...」
実のところ、秘密と言われるこの場所だがグーハイにとっては見覚えのある場所だった。
それもそのはずで、昔父に連れていかれては何度かここを訪れていた。
「まさか、まだ使われていたなんて...」
もう何十年も前の記憶だったので、すでに廃墟として使用されていないものだと勝手に思っていた。
グーハイは軍車を運転していたが、入り口で止められる。
「すみません。証明書をご提示願います。」
そう尋ねてきた哨兵に身分証明書を見せ、確認させる。
哨兵はIDを一目見た後、またグーハイの方に目を向けた。
「まさか、グー大隊長のご子息で?」
いつもは嫌な気持ちになるが、今回ばかりは彼の名を借りるしかない。
「...ああ」
「やはりそうでしたか。...わかりました、どうぞこちらへ」
最初の門を突破したと思ったが、また直ぐ別のゲートキーパーに止められる。
「申し訳ありませんが、これ以上先には行けません。ここより先は訓練場と実験区になっていますので、お探しの方がいらっしゃるようでしたら、応接室にてお伺い致します!」
ここは普通の部隊の管理よりも厳格で、たとえグーハイであっても彼の顔を見て通してくれる場所ではなかった。
「ああ、わかった。」
元々グーハイもそこまで入り浸るつもりではなかったため、門兵の言う通りに移動して応接室へと移動した。
暫くして、応接室での静寂に飽きたグーハイは外に出て空を見渡していた。
何機かの戦闘機が飛行編隊を構成し、大角度の回転動作を繰り返し練習している様子だ。
中のパイロットを確認することは叶わないが、どの戦闘機をバイロインが操っているのかはなんとなく分かる。
「彼らは毎日このように練習しています」
後ろの将校が、突然口を開いた。
それに対してグーハイは何も言わず、目はずっと流れる戦闘機を見つめている。
「私は彼らが訓練を終え、楽しそうにタバコを吸っているのを見るのがとても好きなんです...」
そう言う将校は、とても優しい瞳をしていた。
他の人にとって、これらの飛行は演技であり、観賞に近い。
しかし、グーハイにとってはこれらの難易度の高い動作は平日の苦しい訓練を示していることくらい理解できる。
演技が素晴らしければすばらしいほど、その背景には多大な苦労が存在している。
そう考えると、バイロインのことを想いグーハイは心が締め付けられる。
「ああ...」
今、目の前で繰り広げられている何十回転もしながら飛行するアクロバットは華々しいものだが、グーハイの目には数十Gに耐える苦行としか写らない。
朝の訓練が終わったのを見て、言伝を預かる兵士がバイロインの元へと駆け寄る。
「バイ隊長、面会したい方がいらっしゃっています。」
バイロインは乾いた喉を潤しながら、「誰だ?」と聞き返す。
「グーハイさんです」
その名前が耳に入った瞬間、口に含んでいた水を吐き出しそうになって咽せる。
「はぁ?...知らん、そんなやつ!」
どこか悲しみを含む背中を向け、慌てたように再び戦闘機に乗って離陸した。
もともと午後の訓練には参加しなくてもよかったが、グーハイが来訪したと知り、居ても立っても居られないままに訓練へと向かっていた。
複雑な感情が渦巻く心を鎮めるために、高負荷の訓練で自分を殺すことしか方法がない。
空はだんだん暗くなり、今ではもうバイロインが搭乗する機体しか空を飛んでいない。
「バイ隊長! まだグーハイさんはお待ちでいますが...」
自分が休憩を挟むたびに尋ねてくる部下だったが、バイロインは断固とした態度で、「会わないと言ったら会わない!」とだけ繰り返す。
「わかりました...」
そう言い残して遠くへと去っていく部下の足音を聞き、本当は顔を見たいと思うバイロインの胸は痛みで締め付けられる。
しかし、間もなくして再度足音が自分の元へ近づいてきた。
「会わないと言っただろ!」
拳を握り締めて怒るバイロインだったが、部下が慌てて訂正の言葉を紡ぐ。
「い、いえ!今度はグーハイさんではなく、グー大隊長です。ご本人がお目にかかりました。」
想定外の人物の来訪に呆然とするバイロイン。
「あ、ああ」
暫くしてようやく口を開くことができたのだった。
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ちょっとがんばりまして、二話連続投稿してみました!
投稿する期間がまちまちだと口調だったり、関係性を忘れてしまうこともあり、思い出したり確認をとったりするために翻訳する時間が倍になってしまうのが悔しいところです...笑
前と違和感を感じましたら、気軽に指摘いただけると助かります!
:naruse