第131章:冷酷に堂々と
ユエンは机に座って留学の書類を見ているバイロインを黙ってずっと見ている。やっと彼が留学の提案を受け入れてくれると思い、ここ数日間ずっと悩みを浮かべていた顔が笑顔に変わる。
「ねぇ、ロイン…お母さんは全部あなたのことを思ってやっているのよ。グーハイはあの人(グーウェイティン)の子だから中国に残るのは仕方がないけど、あなたは違うの。あの人はあなたのこともちゃんと気にかけてくれてるの。あの人があなたに与えてくれる待遇はグーハイとは天と地ほどの差よ。お母さんはあなたに劣った暮らしをさせたくはないの」
長い沈黙の後、バイロインは口を開く。
「”ユエン”」
名前を呼び捨てにされたのを聞いてユエンは笑顔を強張らせる。
「ロイン…今私のことなんて呼んだの?」
バイロインは無表情でユエンを見ている。
「じゃあアンタのことをなんて呼べばいいんだ?ユおばさん?グさん?それともグ夫人か?」
ユエンの顔は美しい頬と不釣り合いなほどに真っ青になっている。バイロインは机の上の書類を見て静かに言い放つ。
「もうこんなことやめろよ…吐き気がする」
バイロインの言葉は鋭い氷の刃になってユエンの心に強く突き刺さる。落ち着いたばかりの気持ちは次第に崩れ始めていった。
「…吐き気がする!?あなた…そう言ったの…?これほどあなたのためを思ってやったのに…吐き気がするって…?バイロイン…バイハンチーがあなたをどんな言葉でたぶらかしたのか知らないけど…そんなに平然と母の悪口を言ってもいいと思っているの!?」
「アンタみたいな人間が人のこと言える立場か?俺はアンタよりも醜い心の持ち主を知らない」
ユエンは力いっぱいにバイロインを椅子から持ち上げて、すすり泣きながら質問する。
「あなた…私が悪いって言いたいの?どうして…そんな酷いことが言えるのよ…バイロイン、あなたは私が死ぬまで許してくれないつもりなの…?」
バイロインは冷たくユエンの手を振り払い、自分の足で立ってしっかりと告げる。
「もう二度と母親面するな。俺はずっとアンタのことを母親として認めることはなかった…その考えは一生変わらないんだよ!」
ユエンはソファーに崩れ落ち、胸に手をあてて、悲痛の表情を浮かべている。
「それからアンタが言ってる留学だけど」
バイロインはそう言いながら机の上の書類を両手で持ち上げてゆっくりとユエンの前で引きちぎった。
「無駄なことに労力使ってんじゃねえぞ…あんな小娘(シーフイ)一人使っただけで俺を騙して海外に留学させられると思ったのか?あんた達二人とも、おめでたいやつだな!このバイロインが将来留学するとしても、お前の汚い手なんか絶対に借りるもんか!」
二つに裂かれた紙の束たちがユエンの頭をかすってゆっくりと床一面に散らばっていく。十日間の苦労の結晶は一瞬にして砕け散った。
バイロインは部屋の出口に向かう。そして出口の前に着くと振り向きユエンを見て言う。
「二度と俺の家族を傷つけるじゃないぞ。…もし次やったら十倍にして返してやるからな!」
部屋を出ると後ろからは胸が張り裂けるような泣き声がまるで空の中で盛んに鳴り響く雷鳴のように響いてくる。一声、また一声とまるで世界中を雷雲が覆っているかのようだ。
バイロインはゆっくりと歩みを止め、目をそっと閉じる。そしてまた目を開けてこの建物から出ていく。
一月十四日、おばあちゃんが退院した。バイ家はやっと以前の穏やかな生活を取り戻した。
この日の午後、バイハンチーとツォおばさんは買い物に出かけていた。ユエンたちがバイ家付近を荒らしたため、近隣の家屋に被害が出ていたのだ。お詫びの品を買って配るとともに壊れた物の弁償代を払うつもりだ。
バイロインは自分が原因で起きてしまったことだからと謝罪に付き添いたかったのだが、ツォおばさんがどうしても連れて行くことを嫌がり、息子のトンテンと一緒に家で留守番させた。
トンテンくらいの年の子供は刀のおもちゃを振り回したり、銃のおもちゃで遊びたくなってくる年頃だ。バイロインが部屋を出るとトンテンは銃のおもちゃで庭の木に向かって撃つマネをしている。
バイロインはトンテンがとても楽しそうに遊んでいる様子を見て近寄っていく。
「トンテン、それちょっと見せてよ」
トンテンは自慢げにバイロインに銃のおもちゃを渡す。
バイロインがその銃を持つと思いのほか重く、マジマジと見てみるとよく作り込まれていることに気がつく。装飾、大きさ、重さ、形…すべてが本物と見間違えるほどに良くできている。
「これ、随分良い銃だな」
バイロインは思わず褒めた。
トンテンは嬉しそうにバイロインに自慢する。
「当たり前だよ!僕の友達も羨ましがるんだ。でもあげない!みんなが持ってるのよりすごい銃なんだ」
バイロインはトンテンの嬉しそうな様子を見て思わず自分も嬉しくなる。
「これ、高かったんじゃないか?」
トンテンはそれに首をかしげながら答える。
「僕、分かんないんだ。これね、グーハイお兄ちゃんがくれたの」
”グーハイ”という名前を聞いてバイロインの表情が変わる。バイロインはトンテンにおもちゃを返して、ちょっと離れたところでタバコを吸ってトンテンが遊ぶ様子を眺める。
ーー心配事なんて何もないんだろうな…
楽しそうに遊ぶトンテンを見ながらそんなことを思う。
バイロインがトンテンくらいの年の頃には小さい路地で友達と戦闘ごっこをして遊んだもんだ。そんな時は父子家庭や貧乏のことなど悩みもせず、一日中ひたすら遊んでいた。頭の中では次はどんなことをして遊ぼうか考えることでいっぱいだった。
実に単純で充実している。
「グーハイお兄ちゃんがね、いっぱい色んな物買ってくれたの。まだ開けてないおもちゃもいっぱいあって、今度友達と一緒に開けるんだ。お兄ちゃんにも見せてあげる!あ、でも勝手に開けちゃダメだよ?」
バイロインはまだ考え事をしている。そんなバイロインの鼻にトンテンの拳がくっつく寸前まで来てすぐ離れていく。トンテンは泥棒をやっつけてやるといった表情をしている。
バイロインは軽く笑い、トンテンのズボンのベルトを引っ張って軽く持ち上げる。
すぐに下したあと、トンテンはまたすぐにバイロインにじゃれつく。バイロインも他にすることもないのでしばらくトンテンと遊んだ。そしてトンテンが疲れ果てた後、ベンチに腰をかけてトンテンがおもちゃを触りながらバイロインに質問する。
「ねえ…グーハイお兄ちゃんはなんで最近遊びに来ないの?」
バイロインは暗い表情をして答える。
「…あいつは実家で新年を迎えるんだ」
「じゃあ年が明けたらまた来てくれるかな?」
バイロインはトンテンのほうをじっと見つめる。トンテンは期待を表情に浮かべていた。
「そんなにあいつに会いたいのか?」
トンテンは力いっぱいに頷く。
「うん。僕たちね、”似たもの同士”なんだ」
ーー似たもの同士…?
バイロインはしばらく考えるが二人の共通点は見つからなかった。
「僕たち、同じ恋の悩みがあるんだ」
それを聞いたバイロインの体に衝撃が走る。
ーーあいつ、こんな子供に話したのか?!
「最後にグーハイお兄ちゃんと遊んだ時なんだけど、お兄ちゃんが”心が苦しい”って言ってたの。話を聞いていたら僕も同じことで悩んでるって気づいたの。それでグーハイお兄ちゃんが”俺たち似たもの同士だな!”って言ってたの」
ーーあの野郎…!普通子供にそんな話するかよ?!
しかし、グーハイならやりかねないとも思う。バイロインはわざとからかうように言う。
「それで…一体どんなことでその”心”を悩ましてるんだい?言ってごらん?」
「えっと…」トンテンの表情が曇る。
「僕とグーハイお兄ちゃんは同じクラスの子が好きなの。その子は僕に興味があるみたいなんだけど、いつも認めないんだ」
トンテンの話を聞いてバイロインはグーハイの”苦しみ”が何であるかを理解した。
「”万事休す”ってことかい?」
バイロインがそう尋ねる。しかしトンテンが首を傾げる。
「それってどういう意味?」
バイロインはトンテンが七歳の子供であることを思い出す。
「あぁ、ごめん…その子は結局認めてくれたの?」
トンテンは首を横に振る。
「忘れちゃったなぁ。僕、今は別の子が好きなんだ」
バイロインは黙り込む。
しばらくするとヤンモンが家にやってきた。バイハンチーとツォおばさんがヤンモンの家に山ほどの詫びの品を持ってひたすら平謝りしたようだ。しかし、ヤンモン一家はあの騒動中、親の実家に帰っており今日帰ってきたばかりなのだ。全くわけもわからず大量の品物を渡されずっと謝り続けられたのだ。
「ねぇ、インズ。親父さんどうかしたの?」ヤンモンはニヤニヤしながら聞いてきた。
バイロインはため息をついてヤンモンの肩に手をかけて困った表情で話す。
「この前、ユエンが来て家の前で騒いだんだ…うるさくて夜も寝れないほどにね。正月に近所の人に酷い迷惑をかけたから親父は謝って歩いているんだ」
「え!そんなことで謝っているの?!君の親父さんは律儀だなぁ…僕のお母さんなんか一日中庭で怒鳴ってるよ。毎日欠かさずね…隣近所にも怒鳴るし。夜は夜でお父さんと喧嘩で騒ぐし。近所中に響き渡ってるよ。それで次の日は何事もなかった顔をして出かけるんだ…そんな僕の家なんかどうしたらいいの?」
バイロインは黙り込んでいる。何も喋らないバイロインを見てヤンモンは呆れた表情をして、肘でバイロインを小突く。
「あ、そうだ。聞きたかったんだけどシーフイとはどうなったの?」
バイロインはたった一言で返す。
「終わったよ」
「終わった?」ヤンモンは驚きの表情を見せる。
バイロインは話題にするのも嫌だったが、シーフイがすでに出国していることをヤンモンには教えておいた。そしてそれを聞いたヤンモンは残念そうな顔をする。
「インズ、どうしてこんないい機会を逃したの?」
バイロインはヤンモンの襟を引っ張り冷たい表情で言う。
「お前は一体何の用事でここに来たんだ?親父がお前ん家に来たっていうだけか?」
それを聞いてヤンモンが何かを思い出したかのように話し出す。
「あぁ、思い出した!明日、元宵節だよね?一緒にお祭り行こうよ!ただ家にいるなんてつまらないしさぁ」
バイロインは考える。
ーーどうせ家にいても暇だしな…気晴らしにもなるか…
「あぁ、わかったよ。じゃあ明日の朝会おう」
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※ツォおばさんが近所への謝罪にバイロインを一緒に行かせなかった理由について
本当は「说是没成家的孩子出去露脸不吉利(家族以外の子供と一緒に顔を出すのは縁起が悪い)」とツォおばさんは言っています。
中国は日本以上に縁起を大事にします。可能であれば解説したかったのですが自分の力不足でこの縁起の根拠が見つからず詳細がわかりませんでした。ニュアンスとしてはバイロインを家族として認めないとかではなく、血のつながりがないゆえに縁起に従って仕方なく、っていう感じだと思います。もし詳細わかる方いたら教えてください(._.)
※元宵節(げんしょうせつ)について
中国は旧暦を採用している関係で日本の正月の日付とはズレています。旧暦について詳しく知りたいという方は調べてみることをお勧めします。簡単に言うと、旧暦で一月十五日から元宵節という小正月に入り、新年を迎えるためのお祝いが始まります。そして中国の正月(春節)はその年ごとによって日付が変わり、政府が直前に発表する形になっています。大体一月後半~二月前半に位置しています。春節を越えてやっと新年になります。
トンテンの銃のくだり、グーハイまさか本物あげたの!?ってビビッてたんですけどただの高級おもちゃで安心しました笑
:hikaru