第51章:汚れちまったこの魂は
この数日間、バイロインはずっとグーハイの側で過ごしていた。
何度も部隊へ戻ろうと試みたが、それら全てはグーハイによって阻止され、強制的に滞在を続けさせられている。
グーハイの言い分としては、“ちびインズ”が痛々しくて見てられない。それが回復するまでは絶対に帰さないというものだった。
もちろん、あの欲深いグーハイだ。ただで家に泊まらせるわけがなく、見返りとして、毎晩“ちびグーハイ”のお世話をバイロインはしなければならなかった。
グーハイはバイロインがこっそりと逃げ出すのではないかと危惧し、朝は誰よりも早く起き、出社時には車へと引っ張って自分の会社まで連れて行き、昼も一緒に外食、退社時も車までエスコートして家へと帰り、夜は全ての鍵を閉めてバイロインから離れなかった。
トイレに行く時でさえグーハイはバイロインの後ろをついて行ったが、中までついて行こうとすると、流石に「ふざけるな!」と怒られていた。
会社での過ごし方も変わった。
以前のグーハイは、誰も付き纏わせず独りで多くの時間を過ごしていた。しかし、バイロインを連れ出すようになってからは、出社すると後ろに。仕事中も側に。退社時も肩を並べて歩いているので、社員は皆「あの腰巾着は誰だ?」と不思議がっては、あちこちで井戸端会議が発生していた。
バイロインもただ一日を過ごしていた訳ではなく、グーハイの会社にいる時間を利用してプロジェクトの進捗状況を審査していた。
グーハイもそんなに余裕があるわけではなかったが、バイロインのそばに居られるという理由だけで時間を作っては、一緒に工場の視察を毎日繰り返す。
そもそも、各会社と協力体制にて行われている現在の生産ラインの分割を協議した際には、海因科技公司は主要な企業ではなく、あくまでもサポートする側の協賛企業だった。しかし、今では夫婦の共謀のもと、ほとんどの主要部品は海因会社の生産ラインにスライドし、独占状態が続いている。
グーハイ曰く「俺が稼いだ金は全てお前のものなんだから、こんな美味しい話を他所の会社に渡しちゃダメだろ」という事らしい。
ある日の午後、グーハイはいつものようにデスクワークを、その近くでバイロインはジジイのように太陽の日を全身に浴びていた。
「社長。最新の企画書です。目を通してください。」
ノックの合図と同時に入室してきた女性社員。手に持っていた書類の束をグーハイに渡すと、グーハイは慣れた手つきでその書類の束に素早く目を通していく。
最後まで見終わると、何枚かの資料を抜き取りデスクの上に並べた。
「おい。ここは以前の会議で変更すると伝えていただろ?」
女性社員は「すみません」と慌てながら身をかがめてその資料を見つめる。
女性の襟元は大きく開けられており、身を屈ませた状態になるとわざとかと疑いたくなるほど、たわわな胸元が見えてしまう。
グーハイが説明する度に視線を上げると、目の前には大きな饅頭が二つ並んで美味しそうに誘惑していた。
その様子を後ろで見ていたバイロインは、目を細めてはそのまま瞑る。
「以上だ。次からは気をつけろ」
「失礼します」
書類をまとめて手に持ち、立派なお尻を左右に振りながら退室して行った。
ドアが閉まると、バイロインがわざとらしく大きな音で咳払いをする。
「どうかしたか?」
グーハイが首を捻って後ろを向くと、バイロインが人差し指を立てて掻くような動きをしては、不満そうな顔をしていた。
「ちょっとこい。話がある」
グーハイは素直にその言葉に従ってバイロインの元まで行き、その鍛え上げられた立派な太ももに跨がるようにして向かい合って座る。
「何が言いたいんだ?」
バイロインは無言のままグーハイのシャツの中に手を滑らせる。
「おいおい、ここは会社だぞ?」
口では注意しているものの、グーハイの顔は満更でもなさそうだ。
バイロインが会社でそんな雰囲気になったのかと内心喜んでいたグーハイだったが、突然 胸の突起を強く抓まれて体が変な動きをしてしまう。
「おいッ…!?」
グーハイはバイロインの腕を咄嗟に掴んで、自分の胸から手を離させようとするが、バイロインがなかなかに強い力で抓っているので、無理矢理外そうとすると激痛が襲う。
「何がしたいんだよ?」
「何がしたいって?...そんなの俺の目を見たら分かるだろ?」
そう言って、さらに強く抓るバイロイン。
「やめろ!分かった、悪かったって!だから捻らないでくれ!マジで痛いんだ!」
グーハイが申し訳なさそうに苦笑いするが、バイロインは満足していないようでその手を緩めない。
「分かった!今度から会社の女には身なりを徹底させるから!悪かったって!...そうだ!何が食べたい?なんでも作ってやるぞ!」
「お前の会社の有能な社員は、通常業務の他に特殊な業務もやらせてるのか?」
やはり先ほどの出来事で拗ねているのか、バイロインはグーハイが何を言ってもその手を離さない。
自分がされていることに次第に腹を立てていくグーハイは、バイロインの腕を少しきつく握りしめて、出来るだけ笑顔でーーしかし怒気はダダ漏れでーー再度 語りかける。
「お願いだ、バイロイン。この手を離してくれないか?...ここはデリケートな部分なんだ、そんなに酷くされたらお前だって痛いだろう?...それに、もしこのまま続けるようならお前にもベッドの上で同じことをしてしまいそうになる」
最後はほとんど脅しに近かったが、それでもバイロインは微笑むだけで手を離さない。
グーハイも同じく微笑むと、痛みを我慢してバイロインの肩を強く押し、背もたれへ重心を預けさせてその口を塞ぐ。
深く甘い雰囲気に変わろうとした時、現実に引き戻す音が入り口の方から響き、同時にドアが開く音も聞こえた。
エンが苦笑いをしながら遠慮がちに尋ねる
「二人は何をしているの?」
グーハイは弾かれたようにバイロインから離れて立ち、バイロインも素早くグーハイのシャツの中から手を引いた。
お互いは身なりを素早く整えて、自分のデスクに戻ると、何事もなかったかのようにグーハイは仕事をバイロインは窓の外を眺めた。
「急ぎの用か?」
グーハイにそう尋ねられ、エンは驚いて自分の服装をチェックする。なぜかグーハイの瞳が濡れたような熱を帯びていたからだ。
「なんでそんな目で私を見るの!?」
「どんな目だよ?」
その目よ!と声に出す瞬間、グーハイの瞳の中の温度が次第に冷めていくのを確認して、自分の勘違いだったのかと無理矢理 解釈する。
「....いえ。なんでもないわ。...そうね、これ。さっき会議で話し合った結果の書類よ。確認して」
エンはグーハイのそばに座って、仕事の話を真剣に詳しく話し始めた。
バイロインは会社に三、四日間滞在するようになってから気づいたのだが、グーハイはエンを相手にしている時だけほとんで素で接しているようだった。
お互い何でもないように接しているが、かえってそれがお似合いのカップルのように見えてしまう。
彼女以外の社員がグーハイのもとを訪れた時は、グーハイは指示を出すだけで社員は受け身な姿勢を貫いていた。しかし、エンと話している時はほとんどがエンからの提案であり、グーハイはそれに頷くだけで、自分から何か訂正することはほとんどしない。
まるで夫婦のようなやりとりは、他の人には真似できない嫉妬の象徴と化していた。
「そうだ、この前 頼まれていた塗り薬、用意しておいたわよ」エンはポケットから小瓶を取り出すと、グーハイのデスクへとそれを置く「これ、私の兄が古い漢方医を探して特注に配合させたものよ。毎日三回つけて良くなるようなら、その医者に追加の依頼をしておくわ」
グーハイは口角を緩く持ち上げて、その小瓶を受け取る。
「ありがとう。いくらだ?」
「いらないわよ」エンはグーハイからそんな言葉が出てくると思っていなかったのか、綺麗に笑い出す「気にしないで、いつものお礼よ」
グーハイは小瓶を摘むように持ち上げて、バイロインに向けてそれを揺らして見せる。
「お前もお礼を言わなきゃな、“お兄ちゃん”?」
「...........。」
「えっと、試してみてよ!あなたに合うのか確認しておきたいわ」
グーハイは瓶の蓋を開けてクリーム状の液体を指で掬うと、自分の古傷がある額にそれを塗る。
「塗りすぎよ!」エンは笑い声をあげる「ほら、全部眉に落ちたじゃない!もー、拭ってあげるわ」
自分のハンカチを取り出してグーハイの眉についた液体を拭き取り、適量をグーハイの代わりに塗ってあげる。
バイロインはその様子を後ろからじっと見つめる。
グーハイの額に残る古傷は、八年前の事故でできた傷。自分の手で傷つけてしまったのにも関わらず、傷を癒しているのはその事を知らない彼女の方。
エンの方からお節介で薬を用意していたならまだ良かった。しかし、その塗り薬はグーハイがエンに頼んでいたようだった。
ーー何で、俺に言ってくれなかったんだ...?
エンが塗り終えこの部屋から出ていくまで、いくら考えてもバイロインにその答えは導き出せなかった。
夜、二人の家に帰ると、前に約束してくれていた料理をバイロインが作ることになった。
グーハイは感無量で涙を流す。心の中でガッツポーズをしているはずが、あまりにも嬉しすぎて行動にも起こしていた。
「長年の願いが...今夜....やっと、実現される....!!」
この日を大切に記録しておくべきだと、金にものを言わせて高画質のビデオカメラを大量購入し、全ての工程を納めようとあらゆる箇所に設置する。
まずは食材を買うシーン。後ろから野菜を買うところを映しながら後を追う。まるで、日本のテレビ番組にある初めてのお使いのような光景である。
家に戻ってキッチンに立つと、バイロインは全方位にあるカメラを意識して少しぎこちない様子だった。
「野菜を切ってる!」
「インズが炒め物を!!」
ハンディカメラを持ちながら、周囲をうろちょろしてはガヤを飛ばすグーハイに思い切り蹴りを一発お見舞いする。
「先に座って待ってろ!!うるさいんだよ!」
「火傷しないか心配なんだ」
「するか!俺ももう二十六だぞ!」
口を尖らせながらも、キッチンから出ていくグーハイ。
出て行ったのを確認すると、先ほどまでの腹いせにと大量の醤油と唐辛子をグーハイのモノにだけかけて仕上げる。
あまりの香りに思わず咽せてしまい、一度外へと避難して新鮮な空気を吸い込む。
「何してるんだー?」
ダイニングからグーハイの声が聞こえ、慌てて持ち場へと戻りお皿へと盛り付ける。
「さあ!食べよう!」
バイロインが運んできた料理は、“見た目”は至って普通だった。
「本当にお前が作ったのか!」
グーハイは食に関して、今まで見たことがないほどの笑みを浮かべる。
ーー停電はしないよな?もし暗闇になったら、この料理を見れなくなってしまう!
手を擦りながらどれから食べようか見ていると、バイロインが笑いながら「早く食べろよ」と急かしてきた。
「じゃあ、食べるな!」
グーハイは白菜を箸で掴み、それを口へと運ぶ。口の中に入れた瞬間、今まで味わったことのない悪魔的な香りや辛さに思わず咽せるが、すぐに自分をコントロールして平気そうな表情を作り直す。
「...不味かったのか?」
バイロインが眉を下げながらため息混じりに聞いてきたので、グーハイは必死に笑顔を作る。「い、いいと思うぜ!...ちなみに、ご飯はあるか?」
「ない」その言葉を聞いた瞬間、グーハイの笑みが少しだけ崩れる。舌はすでに麻痺しており、なんとか白米で誤魔化そうとしていたのだが、どうやら無理らしい。
「こんなにおかずがあるのに、まだ欲しがるのかよ。...そうだ、スープがあるんだ!よそってくるか?」
「… ...。」
「せっかく作ったんだ!全部食べろよな。記念にビデオでも撮ろうぜ!」
そう言って、バイロインはグーハイが持っていたハンディカメラを手に取り、グーハイにレンズを向けて食事の様子を撮影し始める。
バイロインが初めて自分のために作ってくれた料理ということもあり、グーハイは辛さで汗を流しながら、舌を火傷させながら、唇を厚くしながらも、そのカメラに向かって楽しそうに食事をする。
グーハイがあまりにもキツそうに食べているので、バイロインが少しだけ味が気になって自分のお皿から料理を食べようとすると、グーハイにその手を掴まれる
「食べるな!!...これは全部俺のものだ」
そう言ってお箸と取り皿をグーハイによって没収され、並べられた料理たちはグーハイの元へと引き寄せられた。
無理して食べられない料理を食べるグーハイを見ていると、だんだんと心が締め付けられるような感覚に陥っていくバイロイン。
「美味しかったぞ!」
あの最悪な味付けをした料理を残すことなく、全て食べ尽くしたグーハイに「それならよかった」などと言う言葉は出せなかった。
お皿も洗い終わり、ソファに座るグーハイの元へ近寄るとその手を引かれ、自分の隣に座らされる。
「手、また酷くなってないか?」
傷跡が沢山ある手を握り、まじまじと見つめるグーハイ。その手には歴史を感じる軍人の誇りがたくさん刻まれていた。
特に酷い箇所は爪である。捻れていたり、欠けていたり。いくら軍属であろうとそこまで酷くなるのかと疑ってしまうほどに、グーハイは毎回それを見るたびに心を痛めていた。
「ああ、それなら機械を毎日触っているからな。戦闘機の整備は意外と大変なんだぞ!鉄に指を挟まれることなんてしょっちゅうだ」
バイロインが話している間にポケットから取り出した小瓶。それはエンからもらった塗り薬のようだった。
傷がある箇所に優しく塗り広げていくグーハイ。
グーハイがなぜエンにこの塗り薬を頼んでいたのかが分かり、お昼のモヤモヤが晴れていく。
「...もしかして、俺の手に塗ってくれるためだったりするのか?」
「....と思うか?」
バイロインは微笑むだけで、返事はしなかった。
深夜の二時過ぎ、グーハイが眠ろうとしていた時に隣で寝ていたバイロインが起きていった。
ーートイレか...?
眠たかったのでトイレについていくのをやめたが、三十分待ってもベッドの中には帰ってこない。
ーーまさか!
逃げられたと思い、焦ってベッドから飛び起きる。トイレを見に行ったがそこにはいない。しかし、玄関を確認するとバイロインの靴は確かにあった。
「どこだ?」
部屋を回ってみていると、ベランダであぐらをかいて座っているバイロインを見つける。
横から見えるその美しい輪郭を保つ鋭い顔は、どこか憂いを帯びているように感じられた。
「インズ、ここで何をしてるんだ?」
グーハイは行動の真意が読めず、驚きながら話しかける。
「反省しているんだ」
バイロインはグーハイの方を見ずに、遠く暗い夜空を見つめながら呟いた。
「こんな夜遅いのに、寝ないで何を反省しているんだよ?」
そう言って隣に座るグーハイ。バイロインは目を瞑って長く息を吐き出すと、顔だけグーハイの方をゆっくりと向け、暗闇に吸われるほど弱々しく吐き捨てた。
「俺の汚れた魂さ...」
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ちなみに、初めてのお使いは完全に僕の意思で入れてます(笑)
原作にはそんなの一切書かれていないですけど、ちょっと入れたすぎて書いちゃいました!
初めてのお料理コーナー...は、残念ながらふざけた結果になってしまいましたね(笑)
それでも全部食べてくれるグーハイはなんて優しんでしょうか!
皆様のコメントが多く、見ててとても楽しいです!
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:naruse