第70章:新しい副社長
「ねぇ、聞いたぁ? 今度ウチに入る幹部の人、男らしいよぉ」
「嘘よ〜。だって、入社した時に女性しか雇わないって社長本人が言ってたじゃない」
「めちゃくちゃ才能があったりして!」
「まあ、どちらにせよ社長が連れてくる人ってだけで楽しみよねぇ」
エンがオフィスを横切る時、偶然聞こえてきた彼女たちの会話に耳を疑う。
ーーグーハイがこの会社に男を?
エンは仕事もせずに噂話をする彼女たちに軽く咳払いをし、注意をひきつける。
「そこのレディたち? 色々噂をしているようだけど、その話はありえないわ。...仮にそうだったとしても、彼なら一番最初に私に報告するはずだもの」
エンの存在に気づいた美女たちはその頭を一斉にデスク上の書類へと向け、先程まで騒いでいたことが嘘だったかのように仕事を再開した。
エンがグーハイの居る執務室の前に着き、ドアをノックしようとした瞬間。
その扉はエンの意思とは関係のない動きで、勝手に動き出す。
「あっ」
部屋の中から出てきたグーハイによって、二人はもう少しでぶつかりそうになる。しかし、エンの綺麗な瞳の二センチ手前で、彼の分厚い胸板は停止した。
「お、ちょうど良いところに来たな。お前に伝えてもらいたいことがある」
そう言って彼女の顔を見下ろすのは、この会社の社長であるグーハイ。
「各部門の管理者全員に、午後2時から大会議室で会議をするよう連絡して欲しいんだ。重要な報告があるから、絶対に遅れないよう念を押しておいてくれ」
エンが静かに返事をすると、グーハイはそのまま華奢な身体を避けるように長い廊下を歩いていく。
「グーハイ!!」
エンがその後ろ姿に声をかけると「何か用か?」と整った顔がこちらを振り返る。
「ボグループの会長がここ何日かずっと訪ねてきてたの。私たちの会社と協力して事業をしたいとおっしゃっていたのだけれど、その内容を聞いても一向に教えてくれないのよね。」
グーハイは少し不思議そうな表情を作る。
「ずっと訪問予約をしてくるものだから、今日もきてると思うんだけど...会社の前で待たせておこうかしら?」
「そうか」とだけ呟き、少し考えるような仕草をしていたが「詳しいことは、また俺が帰ってきてから頼む」と言い残し、そのまま急いで廊下を歩いて行った。
グーハイの接し方にエンは口を尖らせ、少し不満そうな表情で見送るしかなかった。
午後1時45分。
グーハイが乗る車が入り口に到着すると同時に、エンはロビーから急いで彼の元へと駆け寄り、荷物を受け取る。
「今日のお昼にも午前中に話したあの...」
「会議の連絡は各管理者にちゃんと伝えておいたのか?」
エンの話を途中で遮り、グーハイは捲し立てるように確認する。
「...済ませてあるわよ」
エンがため息を吐きながら答えると、「それでいい」とだけ返ってくる。
「俺は執務室に戻るから、お前は今すぐに会議の準備をしてくれ!...話はその後でも大丈夫か?」
そう言い残し、大股でエレベーターまで歩いていく。
エンが急いで後ろを追いかけるが、会議の内容をしっかりと教えてくれる様子はない。
「な、何を準備したら良いのよ?!」
焦った様子で尋ねるエンに対して「臨機応変!」という四文字だけ残し、グーハイはエレベーターの中へと消えていった。
ーーな、なんなの?! なんでそんなに焦ってるのよ!?
グーハイの傍若無人さに、エレベーターの前で地団駄を踏むエンであった。
「簡単に紹介する。」
グーハイの重厚な声が会議室に響きわたる。
「隣にいるがウチの会社に新しく赴任した副社長である、トン・ジェ(カタカナ発音)と言う。...これからこいつはウチの会社の一員だ。みんな仲良くするように」
グーハイの紹介を終え、会議室は騒然とする。その中で最も強烈な反応を見せたのは、もちろんエンである。
彼女は以前社員に対して、「ウチに男が来る事はない」と宣言していたからだ。
彼女のプライドに傷をつけるような報告に、エンは思わず口を挟む。
「なぜ、前もって教えてくださらなかったのですか?」
大勢の前での報告に対して、明らかに私情を含んだ質問をするエンに向かって一瞬暗い顔を向けるが、瞬時にいつもの表情へと直し口を開く。
「サプライズだ」
グーハイの返答に対し、質問を重ねる。
「社長は我が社では男性を雇わないと公言していましたよね? なぜ、その信条を破ってでもその方を雇用なさったのですか?」
しつこく食らいつくエンに対し、今度はしっかりと冷たい目線を送りながら強めの口調で説明を行う。
「俺は男は雇わないと公言していたが、その規則は変えられないものとは明言していない。このルールが運用され続けてきたのは、それを破ってくれる男が今までに一人もいなかったからだ。...そして、今それを破る男が俺の前に現れたんだ。」
グーハイは最後の言葉をゆっくりと紡ぐ。
「それでも、お前は俺に規則を守れと言いたいのか?」
グーハイは社員に対してずっと冷たい態度をとってきたが、エンに対してはかなり優しく接してもらえているのは周知の事実だ。
そんな彼女が初めて人前で辱められている状況に、エンを含め会議にいるほとんどの女性が困惑していた。
「エン副社長...」
トンが突然口を開いたことで、会議室全体の目が彼に集まる。
「十秒間だけ、私に簡単な自己紹介をする時間をいただけませんか?」
エンが口を開くよりも先に、隣の美人たちがまるで小鳥の囀りのようにざわめき始める。
ある人は彼女の態度がよくないと不満を言い、ある人は早く自己紹介を促すような言葉を、またある人はただただ男性に興奮冷めやらない言動をとっていた。
自分のイメージを守るためにも、会議全体の順調な発展のためにも、エンは息をのむしか選択肢がなかった。
「...どうぞ。申し訳ありませんでした。」
会議が終わると、エンはグーハイの後ろについて執務室まで歩き出す。トンもまた、そんな彼女の隣を歩いていた。
エンは元々トンに対して敵意などはなかったが、先程の内容を含め、結果的に彼の登場が自分にもたらした様々な不快感から、第一印象は最悪だった。
扉の前に着いた瞬間「午前中の件についてですが...」と話し始めるが、またしてもそれを遮るように声を張りだす。
「トン副社長に話がある。しばらく外で待っていてくれないか」
それでも何か言おうとするエンの口を手で塞ぎ、首を横に振るグーハイ。
「それから、誰が来ても外で待たせておけ。決して中に入れるような真似はするなよ?」
そう言い残し、執務室のドアが彼女の前で音を立てて閉まった。
午後、バイロインはプロジェクトの提携を理由に部隊の研究室からこっそりと抜け出し、グーハイの会社へと潜り込んでいた。
ロビーに入り、いつものようにフロントのスタッフに挨拶をすると、そのまま受付嬢がグーハイの部屋へと回線を繋ぐ。しかし、連絡を切っていたグーハイの部屋にコールが鳴ることはなく、エンの部屋へと繋がった。
「エン副社長、バイロイン様が面会に来られました。お時間はございますでしょうか?」
電話を受け取ったエンは機嫌が悪く、荒っぽい口調のまま「今は忙しく、誰にも会わないそうです!」とだけ言い残してすぐさま回線を切る。
受付嬢は、電話越しの雰囲気がいつもと違うエンに驚きながら「社長は現在急ぎの業務があるようで...」と申し訳なさそうに謝り出した。
「大丈夫ですよ。外で待ってますから!」
受付嬢の負担にならないよう、バイロインは精一杯の笑みを浮かべてロビーを後にした。
この待ち時間はなんと二時間にもわたり、グーハイとトンが執務室から出てくる頃には、エンはもう帰りの支度を始めていた。
「そうだ、用事があると言っていたな。どうしたんだ?」
やっと話を聞いてくれたグーハイだったが、エンはもうどうでも良さそうな表情を浮かべている。
「...なんでもないわ」
エンがそう言うと「そうか、じゃあ気をつけて帰るんだぞ」とだけ返ってくる。
しばらく彼の顔を見つめていたが、時間が経っても何も言ってこないグーハイに心から呆れ、エンは本当にどうでも良くなってしまった。
「じゃあ、さよなら」
エンが荷物をまとめて歩き出すと、いきなりグーハイから名前を呼ばれる。
その瞬間。心が沸き踊ったが、振り返るときには平常を装い、いつもの表情で返事をする。
「どうしたの?」
「いや。俺が話し込んでいる間に、誰か俺を訪ねてくるやつはいなかったか?」
その質問を受け、一気に鼓動が加速してしまう。
「い、いたわ。...あなたのお兄さんが来てたわよ」
ピクリ、と眉が上がる。
「“どの”兄貴だ?」
グーハイの質問に不思議そうな表情を浮かべ、ため息を吐き出す。
「一体あなたに何人のお兄さんがいるのよ?...バイロインさんだけでしょう?」
エンの言葉を受け、なんの前触れもなくグーハイは怒鳴り声をあげる。
「どうして俺に知らせなかったんだ!!!!」
突然怒りをぶつけられ驚いたが、ジワリと怒りを覚え、エンも声を荒げて言い返す。
「誰であっても邪魔させないようにって言ったのはあなたじゃない!!」
グーハイは顔を真っ赤に染め、並の人であればその場に居ただけで泣き出してしまいそうになる程の怒りを露わにする。
グーハイの怒号は会社全域に行き届き、彼のこのような様子を見たことがなかった女性たちはどうして良いかわからずに、皆息を潜めだす。
「あいつがどんな奴なのかお前はわからないだろ!?あいつがここに来てくれることの重要さを理解していないだろう?!!ああ!?...覚えとけ。アイツが来たら、俺がどこにいても、何をしてても、すぐに知らせろ!!」
エンにそう言うと、今度は会社全体に聞こえるように声を張る。
「他のやつも聞いておけ!! 彼にあったら俺にあったと同じだと思え!!何人たりともアイツに指示も命令も出すな!その時はそいつの首を切るぞ!!!」
グーハイの警告が木霊すると、駆け足でエレベーターに入りその姿は見えなくなった。
エレベーターの扉が閉まる様子を眺めるエン。その顔には、一切の感情がなかった。
何度もバイロインに電話をかけるが、エレベーターの中にいるからなのか、全く繋がらず焦燥感に駆られる。
「ちくしょう!!」
エレベーターを降り、急いで外に出るとバイロインの車が向かいの喫茶店に停まっているのを見つけて駆け寄る。すると、運転席でハンドルにうつぶせになって眠る姿が見えた。
車の中では音楽がかかっており、そのせいで着信音に気づいていない様子だった。
ドアを開けようとしたら鍵がかかっているのか開かない。
「おい!起きろ!」
窓をノックしながら声をかけると、それに反応してバイロインは顔をあげる。
「んぁ。もう終わったか?」
寝ぼけ眼でこちらを見つめるバイロインの顔には、ハンドルに突っ伏していたせいか、二本の線が赤く跡になっていた。
「なんで電話に出ないんだ?!」
心配と苛つきから、グーハイは思わず強い口調で話しかける。
「なんだよ。お前が忙しいって聞いたから電話をしなかったんじゃないか」
唇を尖らせるバイロイン。
「ここでずっと待ってたのかよ?」
グーハイの質問に「うーん」呟きながら車内で伸びをするバイロイン。
「いや、そんなに待ってない。それよりも早く乗れって、今日は俺の家に行くぞ〜」
そう言って欠伸をするのであった。
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エンが可哀想な回でしたね〜。さて、今回は早めに更新できてよかったです!
そして!みなさんのコメントやリプライが励みになっているので、よければぜひ!!
*なぜかパスコードが解除されていますが、エラーなのかなんなのか、直し方がわからない状況です。そこで宣言した手前恥ずかしいのですが、そのまま公開しようかなと考えております。不都合がございましたら、ご連絡ください。
:naruse